武田氏の戦略や戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」の表記では、用兵に長けた軍略家とされています。武田家譜代の重臣からも敬意を払われていたといわれ、外者でありながら名前に武田信玄の「信」の文字を賜っていることから重用されていたと推測することができます。駿河守の官位から武田家の板垣信方、毛利家の吉川元春と共に「戦国の三駿河」と称されました。
信置は1528年に駿河の館で生まれ、元服してからの初名である「元置」も、今川義元の字を賜ったものだといわれています。西三河地方の覇権を巡り勃発した、織田信秀と今川義元と戦い「小豆坂の戦い」では先陣を務めました。この戦いでは信置の奮戦もあり、見事今川軍が2戦目で織田軍をうち破りました。
桶狭間の戦いで今川軍が敗戦、今川義元の討死後は次期今川家当主・氏真の元に仕えていましたが、武田信玄から誘いを受けたこともあり、武田家に移る事となりました。