一乗寺の現況や成り立ちなどを掲載しています。

一乗寺について

一乗寺について

一乗寺の現況

山寺号 庵原山 一乗寺
所在地 静岡県静岡市清水区庵原町1937
宗旨 曹洞宗
寺系 焼津市坂本 高草山 林叟院未
本尊 釈迦牟尼如来
仏像 釈迦牟尼如来像、十六羅漢、地蔵菩薩立像、虚空蔵菩薩、厄除地蔵尊、宝冠阿弥陀如来坐像(静岡県指定文化財)
寺宝 桃山の壺、縁起書一巻、茶ひき石臼、薙刀一本(静岡市指定文化財)、棟札、一切経(静岡市指定文化財)
旧寺領 御朱印高14石
創建 永禄12年(3年、9年説あり)
御開山 天龍円鑑禅師 哉翁宗咄大和尚
御開基 朝比奈駿河守信置公
寺域 約4,000平方メートル
門葉 2ヵ寺
建造物 本堂、庫裡、開山堂、輪蔵(静岡市指定文化財)、羅漢堂 、毘沙門堂、鐘楼、山門、茶室、永代供養塔

一乗寺の成り立ち

【臨済宗としての一乗寺】

一乗寺の直接の前身となった、当時の領主庵原氏が創建した禅林寺。
天文年間(1532~1554年)に入ると、庵原氏の出身であった太原崇孚(たいげんすうふ)和尚が臨済宗に属する高僧となったため、領主の庵原氏としても「禅林寺」を京都花園の正法山妙心寺を大本山とする、静岡市清水区興津の巨鼇山清見寺(こごうさん せいけんじ)に付属する末寺として再建、一乗寺として寺名を変えて擁護したといわれています。

【曹洞宗一乗寺の創建】

今まで一般的には、曹洞宗としての一乗寺の創建は永禄3年(1560年)9月や永禄9年の事とされていました。
しかし永禄初年には、臨済宗としての一乗寺がまだ存在している事から、開基庵原一族の擁護者としての立場も、この段階では大きな影響力があったと考えられます。
今川氏の庵原一族の多くは、今川義元の死後多くの大名が離脱する中、今川氏真の側に残りました。
ゆえに今川氏が敗戦した後は、庵原氏所領の各地は武田軍によって奪われる事となり、武田軍の朝比奈駿河守信置の支配下となりました。信置は戦死者の菩堤や家門繁栄を祈願するため、太原崇孚の開いた臨済宗寺院であった一乗寺を庵原氏の旧内庵に写し、寺名を変更せず同族の哉翁宗咄大和尚(朝比奈俊元。勅号:天龍円鑑禅師)を招じ、開山しました。このような経緯から、創建年代は永禄12年(1569年)だと考えることができます。

一乗寺の成り立ち

「用兵に長けた軍略家」
「戦国の三駿河」
朝比奈信置とは

信置公愛用の薙刀の写しが一乗寺に保管されています
信置公愛用の薙刀の写しが一乗寺に保管されています

武田氏の戦略や戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」の表記では、用兵に長けた軍略家とされています。武田家譜代の重臣からも敬意を払われていたといわれ、外者でありながら名前に武田信玄の「信」の文字を賜っていることから重用されていたと推測することができます。駿河守の官位から武田家の板垣信方、毛利家の吉川元春と共に「戦国の三駿河」と称されました。

信置は1528年に駿河の館で生まれ、元服してからの初名である「元置」も、今川義元の字を賜ったものだといわれています。西三河地方の覇権を巡り勃発した、織田信秀と今川義元と戦い「小豆坂の戦い」では先陣を務めました。この戦いでは信置の奮戦もあり、見事今川軍が2戦目で織田軍をうち破りました。
桶狭間の戦いで今川軍が敗戦、今川義元の討死後は次期今川家当主・氏真の元に仕えていましたが、武田信玄から誘いを受けたこともあり、武田家に移る事となりました。

1520年
一乗寺開山の僧侶、朝比奈俊元(後の哉翁宗咄大和尚)が誕生
1528年
一乗寺開基の武将、朝比奈藤三郎(後の信置公)が誕生
1548年
信置公が小豆坂の合戦で今川義元より感状を受ける
1559年
2月15日、哉翁宗咄が元長寺創建に着手。8月8日に完成。8月28日に天龍円鑑の禅師号を賜る。
1569年
哉翁宗咄が大屋受賢に林叟院を譲る。信玄信置公の功を賞し、1月10日に庵原の地を宛行哉翁を請じて一乗寺を改修し創建する。
永禄12年。この年、駿河の今川氏は滅亡する。
1582年
信置公、信長の命令により、庵原の館にて自刃。54歳。