一乗寺ブログ

静岡市清水区にある曹洞宗の院「一乗寺」のブログです。あなたのかかりつけのお寺として、ともに寄り添いたく存じます。

新着ブログ

  • 「暁天坐禅会vol.37」(静岡市)

    2017年12月15日

    ★暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、 暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。

    第37回坐禅会(参加者:8名)

    今年も残すところ僅かとなり、今朝は本年最後の坐禅会となりました。
    12月のことを師走(しわす)と呼びますが、
    これは古来歳末、師(僧)が読経のため家々を馳せ回る「師馳す(しはす)」と、年の暮れの人事往来の慌ただしさを表したものからという両説が有力です。(※正確な語源は未詳)

    確かに、毎年この時期になると、
    通常の法務に加え、歳末の諸事務や新年に向けての支度など、何かと追われる日々です 💦

    ここで、少しお坊さんの仕事の内容をご紹介いたしますと・・・

    一、如常法務(葬儀・法事を始めとする各供養仏事・書き物)

    一、電話・御来客の応対

    一、境内の掃除・整備

    一、掲示物・立て看板の管理

    一、住所変更や名簿整理などの事務処理

    一、給与会計・年末決算

    一、役員会・建設委員会等の資料作成

    一、寺報(会報誌)の原稿制作

    一、贈答品関連(お礼状作成)

    一、「除夜の鐘」の準備

    一、「正月飾り」はじめ、新年の準備 などなど。。。

    まさに、東奔西走の師走といった日々です^^;
    (※お寺によって役割分担は様々かと思われますが、当方の場合関係寺院が2箇所あるので、これらの項目をほぼすべて一人で行っております。)

    などと、、

    とかく日本人は、「忙しい自慢」をしたがると言います^^;
    (かく言う私も、「忙しいなぁ」とついこぼしてしまいます;)

    日本人は、「働かざる者食うべからず」の精神で、「多忙」ということにある種の美徳を感じる傾向にある一方・・・
    欧米人は、「忙しい」のは「時間の使い方が下手」で、むしろ恥ずべきステータスと捉える傾向にあるようです。

    いずれにせよ、
    現代人特有の過活動は、多くのストレスを生みます。
    身体と心は密接なので、どちらかに支障を来たすと万病の元につながります。

    さて、我われ曹洞宗の宗旨である『只管打坐』・・・ただひたすらに坐禅すること。
    この禅宗の「禅」という字と「病」が合わさり、『禅病』という言葉があります。

    『禅病(ぜんびょう)』・・・禅の熱心な修行者に現れる病気のこと。
    ※症状は人それぞれなのですが、頭痛や、胸痛、頭がノボせる、手足が冷えるといったものがあります。
    『単に身体的な症状ということではなく、心理的な痛みを伴うもので、「絶え間なく続く、ひりつくような焦燥感」、「深い竪穴の底に落ちたまま、どうあがいても、上に登っていけない感覚」、「深鍋の中で煎じられているような、我が身が焦げ付くような感覚」
    (「密教的生活のすすめ」正木晃著より引用)』

    私自身。かつて修行時代、日々の日課で朝晩「坐禅」を組んでおりました。
    正直申しますと…「眠いなぁ」「足が痛いなぁ」と思うことがほとんどでしたが、、
    ある時、40分ほどの坐禅時間が5分位に感じられる日がありました。。そして、
    目の前30センチほどの距離にあるはずの壁が、数10メートル・数100メートル先にあるような感覚に陥り、その木目が突如グルグル回り出す…といった経験がありました。
    おそらくそれが、禅病の入り口『魔境』の微弱体験であると気づいたのは、ずいぶん後のことでした。。。

    『魔境(まきょう)』・・・禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のこと。
    ※瞑想が深まってくると、光や風景などが見えたり、音が聞こえたり何かが現れたりすることがある。それらをスルーせず、とらわれてしまうのが「魔境」。

    折しも、先般「曹洞宗参禅道場の会」様が発行する会報誌『参禅の道』の中に、このような記述がありました。

    禅病とは、『…坐禅の真訣を体得せず、自己流の禅を修することによって起こる病で、身心ともに種々の疾病を引き起こすが、とくに盲見妄想による場合が多いことは古来知られている…』
    (中略)
    『…我われは日常生活で偉そうなことを言って偉そうに生きていますが、おかしなことばかりしています。ですから自覚反省も少しはあり、「今日はこんなことをした、だめだな」と思いながらも、おおかた似たようなことをして日送りをしています。それで、「いや、これではいかん、ひとつ坐禅でもしてみるか」などと言って精神的なモヤモヤ、つまりストレスなどといわれているものを坐禅によって解こうとする、それではあさましい心の凝寂だというのです。(中略)つまり欲望の冷凍化だ…というわけです。
    800年の昔に道元禅師は、「坐禅は精神的なものを解消するような手段などではない」と言っておられるのです。
    それは、坐禅によって欲望を一時的に冷凍化しようとしているということであり、坐禅が単なる癒しになっている、(それが絶対的に誤りではないが)仏祖道はもっと深いものである・・・冷凍したものは溶ければもとに還る。あらゆるものの底にある真実相に着眼して、それが素晴らしいものだと本当にわかれば、私たちはどこでもきちんとした生き方ができる。それが、坐禅修行の大事な点だ」と。』
    (以上、『「坐禅は習禅にはあらず」をどう説き伝えるか』大谷哲夫老師の講演より一部引用)

    ここ最近、自分の中にあるモヤモヤ・焦燥感…すべて800年前の彼方より高祖様にお見通しであったと気づかされました。

    やはり、身体が忙しいときは心もざわつくものです。
    そうした気持ちを落ち着かせる「ために」…と、自分自身が「習禅の坐禅」に陥っていたのだと深く恥じ入りました。

    年の瀬に際し、いま一度気を引き締め、新たなる年を迎えたいと思います。
    皆さまにおかれましても、万事差し障りなく運びますよう祈念申し上げます。

    それでは、どうぞ良いお年を(*‘∀‘)ノシ ✨
    (↑言ってるそばから、かわいい絵文字 💧)

    【次回の「坐禅会」は、新年1月15日(月)あさ5時半~(場所:客殿)参加無料です。】

  • 【平成29年「成道会」厳修】

    2017年12月6日

    去る12月6日(水)
    当山では、成道会(じょうどうえ)を営みました。

    今からおよそ2500年前―。
    人間の王子として生まれ、人生の苦楽にどう向き合えばよいか、どう生きればよいのか…ということについて悩み続けたお釈迦さまは、6年間の苦行を断ち、静かなる瞑想の末、尼連禅河(にれんぜんが)のほとり、菩提樹(ぼだいじゅ)の下 で「お悟り」を開かれ、仏陀(覚者)となられました。(降魔成道

    時は12月8日、
    明の明星が輝く冬の早朝、釈尊35歳の時でした

    毎年この時期に行われる成道会は、お釈迦さまがお悟りを開いたことを記念し、報恩感謝を捧げる法要です。

    一、本尊上供

    一、梅花流詠賛歌 奉詠

    一、法話(ワークショップ)

    本年は、法話の代わりにワークショップを行いました。

    折しも、この前日。。
    静岡県某所にて「グリーフケア」の講習会に参加してきました。

    ※グリーフとは、(死別などによる)深い悲しみや悲嘆、苦悩のこと。
    また、これらをはじめとするさまざまな心の動き。

    ※グリーフケアとは、その悲しみから立ち直れるようそばにいて支援すること。
    《※グリーフケアの定義は、まだ専門家の間でも定まっていないそうですが、一つの定義として「重要な他者を喪失した人、あるいはこれから喪失する人に対し、喪失から回復するための喪(悲哀)の過程を促進し、喪失により生じるさまざまな問題を軽減するために行われる援助」というものがあります。》

    ★今回は、そこで学び得た「グリーフカラー」という、折り紙を用いたワークを実践しました。
    ※対象者は、法要に参加された梅花講の皆さま(およそ20名)です。

    ◎まず、お手元に「手のひらサイズの白い画用紙」をお配りします。
    ◎そして、失った大切な方のことを想います。
    ◎心に浮かんだその方の印象を、折り紙をちぎって自由に表現します。(※ 色や形すべて抽象的で構いません)
    ◎ちぎった折り紙を、白い紙の上に貼り付けます。
    ◎そうして出来た一枚の絵を、となりの方にお話しします。

    もちろん、お心に触れる題材ですので、どうぞご無理なく、
    差し障りのある範囲でお話しください、と予め申し上げご参加いただきました。

    結果は、、
    笑顔アリ涙アリの感慨深いひとときとなりました。

    長年、この会に携わっていただいている古参の講員さんは、先に逝かれたご主人様のことをお話ししてくださいました。
    参加者の多くの方が、「普段と一味違って、良い体験をさせていただきました。」と、おっしゃってくださったのは何よりのお言葉でした。

    人それぞれのストーリーがあり、歩むスピードも様々ですが、
    自分の心を表現したり、誰かの話にじっと耳を傾けるということは、ときに大切なことなのかもしれません。

    (↑「たなびく紫の雲」・・・はじめに頭に浮かんだ、亡き師匠のイメージです。)

    グリーフケアに関しましては私自身、以前より深く学びたいと思っており、まだまだ分からないところが多いので、
    来年より、本格的に勉強していこうと考えております

    お釈迦さまが悟りを開かれた35の歳まで、あと2年―。
    比べるのもおこがましく、憚られることですが、、
    若輩の禅僧として、「いま、何ができるか」自問自答しながら、より多くのことを学んでいきたいと思います。

    ▼『成道会とは?』
    http://www.sotozen-net.or.jp/ceremony/annual/jodoe

  • 「暁天坐禅会vol.36」(静岡市)

    2017年12月1日

    ★暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、 暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。

    第36回坐禅会(参加者:9名)

    毎年12月1日から8日まで、曹洞宗の多くの寺院では「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という行持が行われます

    「臘」というのは、12月を意味する「臘月」の略で「八」は「8日」のことです。また、「摂心」というのは「心をおさめる」という意味で、今日宗門では「一日中坐禅をする行」のことを指します。

    臘八摂心は、とくに12月8日にお悟りを開いたお釈迦さまの坐禅を追慕する期間として行われます。

    当山では、毎年この時期「成道会」を営み、羽鳥の洞慶院にて「摂心」を行じております。

    本来ならば、修行時代そうであったように…文字通り一週間ぶっ通しで坐禅をするわけですが、、(※法務の都合もあり)この1日目と8日目の夜坐のみ行じているのが現状です。

    ともあれ、まさに「この坐より摂心!」となりました1日の早朝には、ほぼフルメンバーの皆さんにご参集賜りました。

    前回の雑感の中で、「坐禅は習禅に非ず」・・・「何らかの目的のためにやっているのではない」
    →しかしながら、(意識・無意識に関わらず)目的意識が働く「現代人」や「外国人」の参禅者さんに対して、どう説明したらよいか。
    もっと言うと、
    あまねく皆さんに対して、どう告知していけばよいか。。などと書き連ねてしまいました

    さらに、

    『分かりやすさを追求するだけでは、本質を見失ってしまう。。
    一方、古徳の教えをどう咀嚼して傳導すべきか。。。云々』と偉そうなことを申してしまいました。。

    元よりひよっこの私に先人の教えを余すところなく伝えることなど、一生かけてもできないことだと思っております
    もちろん、教えを紐解くことへの努力は怠らぬよう努めて参りますが、、
    そもそも、祖師方の教えを咀嚼するという表現におこがましさが表れて伝わってしまったかもしれません(猛省;)

    以前、とある法話の会で、若い発表者(僧侶)の方が
    「大勢の人の前で法話をするのが、とても緊張する」と吐露しておられました。
    その時、講評された老師が
    「仏さまの教えを自分が代わりにお話しをするわけであって、(例話はともかく)過度に緊張するのは自我が勝っているためだ」とおっしゃっていました。

    つまり、自分の思いや持論が邪魔をしていては、それこそ本質を見失ってしまうということです。
    今の私は、仏説ではなく単なる自説によるもので、持論を抜いた法話はおそらくスカスカなものになるでしょう。
    ということは、先人祖師方に比べ圧倒的に勉強量と坐禅が足りないのです。(新米住職の苦悩は)つづく。。。

    …と。こんな私の頭の中に関係なく、今日も平均年齢80歳の坐禅会の皆さまの時間は静かに過ぎていきました。
    その中に、このwebサイトをご覧になり、会社勤めのご多忙のさなかご来山された参禅者の方がおられました。

    “坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり” ―道元禅師

    坐禅は、理屈で坐るのではなく、自分の気持ちに従い、心も身体も静かに坐るものだと
    今更ながら再認識させられた師走の朝でした👏

    【次回の「坐禅会」は、12月15日(金)あさ5時半〜(場所:客殿)・本年最後の開催となります。】

  • 「暁天坐禅会vol.35」(静岡市)

    2017年11月15日

    ★暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、 暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。

    第35回坐禅会(参加者:8名)

    10・11月のお寺は、‟お盆”や‟年末年始”とまた違い、特別な行持が続きます。
    先般、市内の曹洞宗寺院にて「晋山式(しんさんしき)」がありました。これは、新たに住職となる新命和尚のいわば「襲名披露の儀」で、一世一代の大法要です。私自身、数年後にこの儀式を控えているということもあり、(お手伝いをしながら)準備の仕方や流れをつぶさに見学させていただきました。
    近隣・懇意のお坊さんはもちろん、地域の方が一体となって支えている姿がとても印象的でした。さて、この晋山式の中で「法戦式(ほっせんしき)」という法要がございます。新命和尚のお弟子として首座和尚(しゅそおしょう)が任命され、開口大声の禅問答が繰り広げられます。ここには、必ず仏法のテーマがあるわけですが、よく掲げられるのが『従容録(しょうようろく)・第二章:廓然無聖(かくねんむしょう)』という命題です。
    この「廓然無聖」という言葉は、禅宗に於いてとても有名であり、大切な言葉です。この言葉は、禅を伝えた達磨大師(だるまだいし)がインドから中国にやって来た時、梁(りょう:古代中国の一国)を治めていた武帝(ぶてい)という王様と交わした問答の中に出てきます。★《前段》『景徳伝灯録』
    武帝「私は即位以来、寺を造り写経し僧を育ててきた。どんな功徳があるか」
    達磨「無功徳。(※功徳などありません)」
    武帝「なぜないのか」
    達磨「それらはただ人間界、天上界の小さな果報であり、煩悩の原因となるだけである。形があるものには影があるようなもので、功徳があるように見えても、それは真実のものではない」
    武帝「ならば真の功徳とはどんなものか」
    達磨「この世では求めることができません。(※みなともに仏と同じ淨らかな智慧(仏性)がそなわっているから、もとより空寂である。だからこのような功徳は、人間の意識で分別する問題でない)」★

    《本則》『従容録』「第二則・達磨廓然」
    挙(こ)す、梁の武帝、達磨大師に問う、如何(いか)なるか是れ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)。
    磨云く、廓然無聖(かくねんむしょう)。
    帝云く、朕(ちん)に対する者は誰そ。
    磨云く、不識(ふしき)。
    帝契わず。
    遂に江を渡り、少林に至って面壁(めんぺき)九年。

    [意訳]
    武帝「仏教の真理の根本は何か(一体全体、仏教の核心とは何なのか)」
    達磨「功徳などありません(※中は何もなく「廓然」すなわち、からりと晴れた青空のようなもので、聖とか凡の分別もない)」
    武帝「いま現に自分に相対しているあなたは、徳の高い高僧で聖なる存在ではないのか」
    達磨「識にあらず(※(空なる存在であるこの身体を)聖かどうか、人間の物差しで量ろうとしてもできないことだ)」
    この問答の後、言葉による接化の限界を感じた達磨大師は揚子江を渡り、少林寺に至って壁観の坐禅を9年の長きに渡り勤めることになった。

    この故事に基づき、曹洞宗の坐禅は壁に向かって坐を組む「面壁坐禅」となりました。(※写真参照)

    こうしてみると、資本主義にどっぷりと浸かってしまった現代人は「梁の武帝」と言えます(私も含め;)。
    やはり、挨拶をすれば返してほしいし、働いた分の対価を求めたい、ややもすると即物的になりがちです。

    「坐禅は習禅に非ず」
    これは、開祖道元禅師が記した『普勧坐禅儀』の一節です

    坐禅は、悟るための手段ではない。
    理想に近づくための修練ではない。

    修証一等。
    坐禅そのものが悟りであり、日常の全てを修行として怠ることなく生きることを第一義とする我が宗門の考え方です

    このことを踏まえ、自らを省みますと、、
    お寺の告知文でも、「心のモヤモヤを晴らすため」だとか「日常の呼吸を離れて」だとか、「〇〇のために」という目的意識ばかりが先行してしまっていたことに気が付きました。

    分かりやすさを追求するだけでは、本質を見失ってしまう。。
    一方、古徳の教えをどう咀嚼して傳導すべきか。。。(つづく)

    以上。
    晋山式はじめ、秋口の様々な行持に随喜させていただく中で、心に浮かんだ雑感をつれづれなるままに (。-`ω-) 〆🍁

    【次回の「坐禅会」は、12月1日(金)あさ5時半〜(場所:客殿)です。】

  • 「暁天坐禅会vol.34」(静岡市)

    2017年11月1日

    ★暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、 暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。

    第34回坐禅会(参加者:8名)

    朝の冷え込みが増してきました
    皆さま、体調の方はいかがでしょうか?

    10月末は、今年3回目となる福井の永平寺に拝登して参りました。

    今回は、第一回目の『同安居会(どうあんごかい)』ということで、「高祖様への下段拝謁」や「監院老師とのご正見」を成就させていただきました。

    思えば、今から約10年前—。
    平成18年の冬、北陸の禅寺「永平寺」の門を叩きました
    以来、一言では言えないくらい多くのことを学ばせていただき、およそ3年と8ヶ月の修行期間を経て下山しました

    その時、寝食を共にした同輩のことを「同安居」と言います。北は北海道から南は九州まで、およそ100名強の僧侶の卵が毎年永平寺に上山します
    時にケンカをしたり、自分自身ダメになりそうな時もありましたが、苦楽を乗り越えた大切な仲間たちです。

    再会を誓い、また全国に帰って行った仲間の背中を見送ると、『自分は1人じゃない』という気持ちになりました

    同じ志を持ち、仏道を歩む集団のことをサンガと称します
    朝の「プチ修行体験」をしたい方は、ぜひ当山の坐禅会にご参加ください(^人^)

    【次回の「坐禅会」は、11月15日(水)あさ5時半〜(場所:客殿)です。】

  • 一乗寺外観

    宗教法人庵原山 一乗寺

    〒424-0114
    静岡県静岡市清水区庵原町1937
    TEL:054-366-0182
    FAX:054-366-0475
    新東名高速道路の庵原インターチェンジより車で5分