「暁天坐禅会vol.37」(静岡市) | 宗教法人 一乗寺

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  • ★暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、 暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。
    第37回坐禅会(参加者:8名)
    今年も残すところ僅かとなり、今朝は本年最後の坐禅会となりました。
    12月のことを師走(しわす)と呼びますが、
    これは古来歳末、師(僧)が読経のため家々を馳せ回る「師馳す(しはす)」と、年の暮れの人事往来の慌ただしさを表したものからという両説が有力です。(※正確な語源は未詳)
    確かに、毎年この時期になると、
    通常の法務に加え、歳末の諸事務や新年に向けての支度など、何かと追われる日々です 💦
    ここで、少しお坊さんの仕事の内容をご紹介いたしますと・・・
    一、如常法務(葬儀・法事を始めとする各供養仏事・書き物)
    一、電話・御来客の応対
    一、境内の掃除・整備
    一、掲示物・立て看板の管理
    一、住所変更や名簿整理などの事務処理
    一、給与会計・年末決算
    一、役員会・建設委員会等の資料作成
    一、寺報(会報誌)の原稿制作
    一、贈答品関連(お礼状作成)
    一、「除夜の鐘」の準備
    一、「正月飾り」はじめ、新年の準備 などなど。。。
    まさに、東奔西走の師走といった日々です^^;
    (※お寺によって役割分担は様々かと思われますが、当方の場合関係寺院が2箇所あるので、これらの項目をほぼすべて一人で行っております。)
    などと、、
    とかく日本人は、「忙しい自慢」をしたがると言います^^;
    (かく言う私も、「忙しいなぁ」とついこぼしてしまいます;)
    日本人は、「働かざる者食うべからず」の精神で、「多忙」ということにある種の美徳を感じる傾向にある一方・・・
    欧米人は、「忙しい」のは「時間の使い方が下手」で、むしろ恥ずべきステータスと捉える傾向にあるようです。
    いずれにせよ、
    現代人特有の過活動は、多くのストレスを生みます。
    身体と心は密接なので、どちらかに支障を来たすと万病の元につながります。
    さて、我われ曹洞宗の宗旨である『只管打坐』・・・ただひたすらに坐禅すること。
    この禅宗の「禅」という字と「病」が合わさり、『禅病』という言葉があります。
    『禅病(ぜんびょう)』・・・禅の熱心な修行者に現れる病気のこと。
    ※症状は人それぞれなのですが、頭痛や、胸痛、頭がノボせる、手足が冷えるといったものがあります。
    『単に身体的な症状ということではなく、心理的な痛みを伴うもので、「絶え間なく続く、ひりつくような焦燥感」、「深い竪穴の底に落ちたまま、どうあがいても、上に登っていけない感覚」、「深鍋の中で煎じられているような、我が身が焦げ付くような感覚」
    (「密教的生活のすすめ」正木晃著より引用)』
    私自身。かつて修行時代、日々の日課で朝晩「坐禅」を組んでおりました。
    正直申しますと…「眠いなぁ」「足が痛いなぁ」と思うことがほとんどでしたが、、
    ある時、40分ほどの坐禅時間が5分位に感じられる日がありました。。そして、
    目の前30センチほどの距離にあるはずの壁が、数10メートル・数100メートル先にあるような感覚に陥り、その木目が突如グルグル回り出す…といった経験がありました。
    おそらくそれが、禅病の入り口『魔境』の微弱体験であると気づいたのは、ずいぶん後のことでした。。。
    『魔境(まきょう)』・・・禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のこと。
    ※瞑想が深まってくると、光や風景などが見えたり、音が聞こえたり何かが現れたりすることがある。それらをスルーせず、とらわれてしまうのが「魔境」。
    折しも、先般「曹洞宗参禅道場の会」様が発行する会報誌『参禅の道』の中に、このような記述がありました。
    禅病とは、『…坐禅の真訣を体得せず、自己流の禅を修することによって起こる病で、身心ともに種々の疾病を引き起こすが、とくに盲見妄想による場合が多いことは古来知られている…』
    (中略)
    『…我われは日常生活で偉そうなことを言って偉そうに生きていますが、おかしなことばかりしています。ですから自覚反省も少しはあり、「今日はこんなことをした、だめだな」と思いながらも、おおかた似たようなことをして日送りをしています。それで、「いや、これではいかん、ひとつ坐禅でもしてみるか」などと言って精神的なモヤモヤ、つまりストレスなどといわれているものを坐禅によって解こうとする、それではあさましい心の凝寂だというのです。(中略)つまり欲望の冷凍化だ…というわけです。
    800年の昔に道元禅師は、「坐禅は精神的なものを解消するような手段などではない」と言っておられるのです。
    それは、坐禅によって欲望を一時的に冷凍化しようとしているということであり、坐禅が単なる癒しになっている、(それが絶対的に誤りではないが)仏祖道はもっと深いものである・・・冷凍したものは溶ければもとに還る。あらゆるものの底にある真実相に着眼して、それが素晴らしいものだと本当にわかれば、私たちはどこでもきちんとした生き方ができる。それが、坐禅修行の大事な点だ」と。』
    (以上、『「坐禅は習禅にはあらず」をどう説き伝えるか』大谷哲夫老師の講演より一部引用)
    ここ最近、自分の中にあるモヤモヤ・焦燥感…すべて800年前の彼方より高祖様にお見通しであったと気づかされました。
    やはり、身体が忙しいときは心もざわつくものです。
    そうした気持ちを落ち着かせる「ために」…と、自分自身が「習禅の坐禅」に陥っていたのだと深く恥じ入りました。
    年の瀬に際し、いま一度気を引き締め、新たなる年を迎えたいと思います。
    皆さまにおかれましても、万事差し障りなく運びますよう祈念申し上げます。
    それでは、どうぞ良いお年を(*‘∀‘)ノシ ✨
    (↑言ってるそばから、かわいい絵文字 💧)
    【次回の「坐禅会」は、新年1月15日(月)あさ5時半~(場所:客殿)参加無料です。】

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