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第111回坐禅会(参加者:11名)
本日は、11月1日「第111回目の坐禅会」に11名の参加者と、‟1”が8つも並びました!(*゚∀゚*)
名前に‟一”が入る当寺としましても、不思議な数字の因縁に…朝から何かが起きそうな予感がしました。
それもそのはず、今日は掛川にある真宗大谷派のお寺「蓮福寺」さまにて法話をさせていただく機会を頂いておりました
朝のおつとめが終わって1時間後、車で1時間の距離に位置する(JR掛川駅の北側)蓮福寺さまに向かいました。
ご住職の馨さんとは、以前「グリーフケア連続講座」という勉強会でご一緒したときからのご縁です。
今回は、毎月第1または第2月曜に定例開催されている「ほっこり法話カフェ(第102回)」の話し手としてお声掛けいただきました。
本来ならば、昨年6月の開催予定でしたが…コロナの影響で今秋に延期の運びとなりました。
会場には、約30名程の参加者の方がおられ、ゆったりとした時間の中お話をさせていただきました
まずは自己紹介も兼ね、修行時代の話から福井県から静岡まで徒歩で帰郷した際のエピソード。。
そして、不安が多い世の中で「自分のこころと向き合うこと」や「他者を慮ること」の大切さを共に再確認しました。
後半は、参加者の方に「素朴な疑問」や「本日の感想」などを自由にご記入いただき、アンケート(投票形式)にてざっくばらんな語らいの時間を設けました。
昨日の「衆議院選挙」とは違う『想いの投票箱』でしたが、、皆さまのお心に触れることができ、私の方がまた多くの学びを得ることができました。
選挙になぞらえるわけではありませんが、いま私たちの身の回りには多くの情報や物質があり、それらを「選ぶ」という作業を日々行っています。
選択肢が増えることは、一見素晴らしいことに見えますが、、それだけ時間を浪費したり、迷いが生じる原因にもなります。
昔やった「お絵かきの時間」を思い出してみてください。
12色の絵の具で好きなものを描いていいと言われた時、無い色があれば色を混ぜて新しい色を作りませんでしたか
例えば、青と黄色を混ぜて緑色を作ったり。。
「高級色鉛筆」などは100色以上の種類があり、緑だけでも数十色あります。
これらの色を選ぶ時間も楽しいですが、選んでいる内に「お絵かきの時間」が過ぎていき、本当に描きたかったものが描けなくなるなんてこともしばしば。。
人それぞれに楽しむ工程や好みが違いますので、一概には申せませんが・・・
少なくとも僕自身は、いま目の前にある色から「新しい色」を生み出すことを楽しみながら、自由闊達な絵を描いていきたいと思います。
今生の「人生」という名の画用紙に
(決まった)
【次回の「月例坐禅会」は、11月15日(月)あさ5時半~/予約不要・参加無料です。】
第110回坐禅会(参加者:11名)
15日早朝は、月例の坐禅会がありました。
去る10月5日は「ダルマさんが亡くなった日」坐禅を重んじる禅宗では、「達磨忌」としてご供養しております。
あれ?そもそも‟ダルマさん”て実在した人物なの?と思われる方もおられるかもしれません。
「♪だるまさんがころんだ」でお馴染みのダルマさんは、達磨大師という実在のお坊さんです。
※この「大師」というのは、弘法大師(真言宗開祖の空海)のように称号なので、正確なお名前は「菩提達磨(ぼだいだるま)」と呼ぶのが正しく、これを略して達磨とも呼ばれます。もっと正確な発音は、「ボーディ・ダルマ」と言い、これはダルマさんが生まれた古代インドで使用されていたサンスクリット語による言い方です。そう、ダルマさんはインド人だったのです。
※更に「ダルマ」という単語は、サンスクリット語で「法」を表す言葉であり、よくダルマさんの絵といえば、眼光鋭く髭を生やした姿で描かれているものが多いですよね。
ダルマさんは、紀元前4世紀の終わり頃。南天竺(なんてんじく:南インド)にあるコウシ国の第3王子として生まれました。
小さいながらも平和で豊かな国にある日、お釈迦さまから法を受け継いだ27代目の弟子である般若多羅(はんにゃたら)という偉いお坊さんが訪れました。
このことを知った、コウシ国の王は般若多羅を宮殿に招きました。般若多羅が尊い仏教の教えを説いたので、王さまはお礼に宝玉を贈りました。
そして宮殿にいた3人の王子たちにも挨拶させると、般若多羅はこう言いました。
「この宝玉は国王さまからの贈り物で、たいそう優れた宝物です。さて王子さまがたは、この世にはこの宝玉よりもっと優れた宝物があると思いますか?」と3人の王子たちに尋ねました。
第1の王子は、「この宝玉より素晴らしいものなどありません。王家だからこそ贈呈できる最高の品です!」と答えました。
第2の王子は、「兄の言う通り、あなたような徳の高い方でなければ受けることのできない宝物です!」と答えました。
上の2人はこの世にこれ以上の宝はない、という答えだったのですが、第3王子のダルマは違いました。
「最上の宝物はお釈迦さまの説かれた真理です。あらゆる光の中では、智慧の光が一番輝いて最上です。」と答えました。
この優れた答えを聞いた般若多羅はダルマに出家することを勧め、国王もこれを承諾しました。
やがて国王が病気に倒れ、亡くなってしまいました。ダルマは父が亡くなった後どこにいくか見定めようと思い7日間の間瞑想し坐禅を組みました。
7日後に瞑想から目覚め父が天上界に召されたことを理解したダルマは、これをきっかけに出家し般若多羅に弟子入りしたのでした。
この時に「菩提達磨」という法号を授けられ般若多羅のもとで40年以上にわたる厳しい修行の末、ついに仏法の正しい教えをすべて伝えられ一人前と認められました。
般若多羅から「今まで学んだことを多くの人々に伝えなさい」と言われ、さらに「わたしが死んでから67年後に中国にて厄難が起きるので、中国に渡りその厄難を鎮めなさい」と告げられます。
般若多羅が亡くなった後に、菩提達磨は国内の教化(布教)に勤め、67年後に正しい仏法を伝えるため中国へむかいました。
6世紀初め、1人で商船に乗り込み海から中国へ渡りました。インドの高僧が、中国に来たことはすぐに皇帝にまで伝わり、仏教を信仰していた梁の武帝という王が宮殿に招き入れました。
梁の武帝は、「私は即位してから、寺を建てたり写経をしたり、僧侶を援助してきた。これは、どれほどの功徳になるであろう」と菩提達磨に尋ねました。
すると菩提達磨は「無功徳、何の功徳もない」と答えました。
「功徳がないというのは、一体どういうことだ!」と尋ねると、「そんなことは小さな満足にしか過ぎない。ただの迷いで、功徳などは実際には何もない影のようなものです」と答えました。
「それでは真実の功徳とは何か」と尋ねると「清らかな知恵が現れ何者にもとらわれないこと。王さまの位にあって功徳を望むのは無理というものでしょう」と答えました。
「では、私の前にいるお前は一体何者か」と尋ねると「不識。(知りません)」と答え、皇帝を怒らせました。
これは、王さまに執着心を捨てるよううながしたダルマの助言でもあったんですね。
その後、菩提達磨は各地を回り法を説きましたが、皇帝を怒らせたお坊さんだという噂がたち、まともに話を聞こうという者はいませんでした。「この国では機が熟していない」と感じた菩提達磨は少林寺に身を寄せ、壁に向かって静かに坐禅を続けました。
しばらくすると洛陽の都で仏教を学んでいる神光と名乗る僧が菩提達磨の弟子になりたいとやってきました。雪がしんしんと降る中で、菩提達磨に挨拶をしても壁に向かったまま振り向きもせず、一言も言葉を発しませんでした。
試されているに違いないと思った神光は、外で一晩立ち尽くして待っていると、明け方に菩提達磨が口を開き「一体何のためにそのように雪の中に立っているのか」と尋ねました。
神光は「御仏の正しい教えを求めて立っています」と答えると、「御仏の教えを軽々しく求めるものではない。命を投げうってはじめて求められるものだ」と答えました。神光はその言葉に感激し、左腕を切り落としました。それを見た菩提達磨は神光を中国ではじめて弟子と認め、慧可という名前を与えました。
その後。菩提達磨を慕って教えをこう人々がやってくるようになり、弟子も少しずつ増えていき、壁に向かって坐禅し続けること9年の年月が流れ…お悟りを開いたとされています。その後、尊い教えを伝え続けた菩提達磨は、528年10月5日に150歳の生涯を閉じました。
この「面壁九年(めんぺきくねん)」の故事にちなみ、玩具としての「だるま人形」ができたわけです。
達磨大師により中国に禅宗が伝えられ、中国禅宗の六祖・慧能(えのう)にまで伝わったとされています。さらに臨済宗・曹洞宗などの禅宗五家に分かれ、日本の伝統宗教にも大きな影響を及ぼしました。
郷土玩具のダルマさんは、達磨大師が坐禅をしている姿をまねた張り子の人形で、赤い衣姿で手足がなく底を重くして倒れてもすぐ起き上がるのが特徴です。
起き上がり玩具としては、室町時代に「起き上がり小法師(おきあがりこぼし)」と称するものが流行したが、江戸時代から「だるま」が起き上がり玩具を代表するようになったとされています。
倒れてもすぐ起き上がるところから、「七転八起(ななころびやおき)」の例えとともに「縁起物」として全国に広まり、現在も親しまれています。
人生には、浮き沈みの波がありますが・・・たとえ何度失敗してもめげず、そのたびに立ち上がるダルマさんの精神を見習い、この苦境を乗り越えていきたいものですね。
【次回の「月例坐禅会」は、11月1日(月)あさ5時半~/予約不要・参加無料です。】
第109回坐禅会(参加者:8名)
台風の接近が心配される中、今朝も本堂にて坐禅を組みました。
先日。
参加者の皆さんに、「延命十句観音経」という短いお経が書かれた写経用紙をお配りいたしました。
これは、岐阜県の曹洞宗青年会から発信された企画で、コロナ終息を願って写経の輪をつなぐプロジェクトの一環でした。
実はその責任者が、私の永平寺修行時代の同輩でもありましたので、何とか多くの枚数を配布し微力ながら祈願の一助になればと思っておりました。
はじめは十数枚の集計でしたが・・・お子さまやお孫さま、介護施設・近隣縁者さまへとご縁がつながり、おかげさまで100枚を超えるご参画(納経)を賜りました。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。
よく「写経に興味はあるけど、ちょっと字が下手で…」とか「筆を使うのは苦手だから」とためらう方がおられます。
写経は、心をこめて丁寧に書写することが肝心でして、文字の上手い下手はあまり問題ではありません。
そもそも写経とは、お釈迦さまが説かれた御教えを書写する仏道修行であり、人々に仏道をひろめお経を書き写す行を通じて大願成就を祈ることから始まっています。
それでは、まず仏教そして写経の歴史について少しご説明します。
お釈迦さまは、今から2500年以上昔インドに実在したお坊さまで、元々はカピラ国(現在のインドとネパールの国境地帯にあたる小国)の王子さまでした。
名をゴータマ・シッダルタ王子と称し、人間が生きている限りどうしても向き合わなければならない4つの苦しみ➔生まれ・病気・老い・死ぬ「生老病死」に代表される様々な苦しみをどうとらえ、乗り越えていくか…ということに悩み、長い修行の末、静かに瞑想し悟りを開かれました。
そして、この世の真理というべく「大切な教え」を多くの弟子たちに伝え後世に残してくれました。
▼例えば・・・「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」ということ。苦しみの原因は、理想と現実とのギャップからくるモノがほとんどです。
目の前の現実を正しく理解するためには、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの)」、「(すべては繋がりの中で変化している)諸法無我」という状態を理解する必要があります。
その上で、一つの感情や物質に執着しない「涅槃寂静」という悟りの境地を目指すのが、仏教徒の生き方ということになります。
こうしたお釈迦さまの教えのことを文字通り仏教と呼び、文字に起こしたのが、いわゆる「お経」ということになります。
お釈迦さまがお亡くなりになられた後、約500人の僧侶が集まり、結集(けつじゅう)と呼ばれる経典の編集会議が行われました。
この時、十大弟子の一人であるマハーカッサパ老師を議長とし、生前お釈迦さまの身の回りのお世話をしていたアーナンダが(一番お釈迦さんの話を多く聞いていたということで)経典の編集主任を担当しました。
しかしながら古代インドでは、まだ文字は日常的に使用されていませんでした。
そのため経典会議では、まず議長のマハーカッサパがアーナンダに質問をします。
その問いに対し、アーナンダが「わたしはこのように聞いた」と答えます。
そうやって、お釈迦さまの説法内容や、その場の状況経緯などを細かに答えていきました。このことを表すのが、「是かくの如ごとく我われは聞きけり」と読み下す「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉で、お経の冒頭にも出てきます。
集まった僧侶はそれが本当に正しいかどうか、お互いの記憶を確認しながら検討しました。合議の上それが認められると、全員で声をそろえて唱え暗記しました。
こうして、だんだんとお釈迦さまにまつわるエピソードが紡ぎだされ「お経」としてまとめられました。
紀元前1世紀頃までは、お釈迦さまの教えは口伝によって伝えられていましたが、より正確に伝えるために「貝多羅葉(ばいたらよう)」という木の葉に書写されるようになり、文字で書かれた「経典」はその後各地に伝わります。
インドのことを別名「天竺」と呼びますが、天竺と言えば『西遊記』
物語では、孫悟空や妖怪たちの活躍ばかりに目がいってしまいますが、忘れてはいけないのが旅の目的です。実在した中国の僧侶「玄奘三蔵法師」は、天竺に正しい仏の教えが記された経典をとりに長旅をします。
三蔵法師はじめ、多くの方々の苦労によって現在私達が目にする経典が誕生しました。2世紀頃からは古代インド語から漢文への翻訳も始まり、木版印刷が盛んになる10世紀中頃までの間、中国では多くの経典が漢訳され写経されました。これが、「写経」の始まりです。
そして、仏教はインドから中国に伝わり日本へと広がっていきました。
日本での写経の歴史は、日本書紀に「書生(写経生)を集めて、始めて一切経を川原寺(かわらでら)に写す」とあります。
その後、聖武天皇のころ写経司(しゃきょうし)を任命し、これら専門職の者が書き写して蔵に収め、諸国の国分寺等に配布されました。
そののち、平安時代頃から「修行のため」、あるいは「病気平癒、先祖供養」など祈りや願いを目的にした現在のような個人的写経が始められたようです。
このように写経には長い歴史があり、多くの人に心の安らぎを与える糧となってきました。写経をする際には、部屋を掃除し姿勢を整えて静かに筆をとり、目の前の一字一字を丁寧に書いていきます。
身心を調えて行う写経の心が、そのまま仏さまの心に通じております。そしてこの写経の精神は、時代を越え道を求むる人にとって大きな心の支えとなりました。
いま見えない不安が多い世の中ですが、この「写経」によって静かに落ち着いた時間を大切にするとともに、祈りや願いを生活の中に活かしていただければありがたく存じます。
「写経教室」をやっているお寺も各地にありますので、インターネットやお近くの寺院にてお問い合わせ頂ければ幸いです。
また、この度おうちでも写経の練習ができるように、静岡市葵区古庄の印刷屋業者「創文社」さんでは綺麗な花をあしらった写経用紙を新たに発売されました。
ご興味のある方は、写経の創文社
(054)265-0870まで、お気軽にお問い合わせください。
ちなみに、写経用紙には各種「お経」や仏さまのお顔を写す「写仏」というものもあります。もっとも親しまれているのは、先ほどの三蔵法師に所縁のある「般若心経」というお経です。
創文社さんでお求めいただける写経練習帳には、般若心経の解説が書かれておりますが、その編集に少し私も携わらせていただきましたので…今回は、そういうご縁もありご紹介させていただきました<(_ _*)>
般若心経は比較的短い経典でありますが、仏法の大切な教えが述べられていて書きやすいお経ですので、初心の方にはこの写経をおすすめいたします
静かな秋のおうち時間、ぜひ写経を始めてみませんか
【次回の「月例坐禅会」は、10月15日(金)あさ5時半~/予約不要・参加無料です。】
第108回坐禅会(参加者:10名)
9月も中旬になり、だんだん秋の風が吹いてきましたカラダ的には、だいぶ過ごしやすくなってきたのではないかと思います。
皆さんは、秋といえば何を連想しますか。僕はやはり『天高く馬肥える秋』という言葉の通り、「イワシ雲」や「夜空の月」といった空を思い浮かべます
※ちなみに『天高く馬肥える秋』ということわざは、空気が澄んでいて空も高く感じられ、馬も過ごしやすくよく肥える収穫の季節。という意味があります
余談ですが・・・以前。この時期に、山門のお地蔵さんの前に白い猫が2匹並んで日向ぼっこしていました。よくみると2匹とも丸々と太ったネコちゃんで、真っすぐこちらを見ているので…思わず写真をとりました
『天高く猫肥ゆる秋』というタイトルで一乗寺の公式ページに投稿してありますので、興味のある方はぜひ探してみてください(。-∀-)
さて、そんな魅力あふれる秋ですが俳句や短歌の季語には、「竹の春」という言葉を用いることがあります。
なぜ、この時期に春という言葉を使うのかというと・・・毎年3~4月頃に繁殖期を迎える竹は、タケノコに栄養分を与えるため青々しさがなくなり、(地下茎でつながっているため)春先には竹の葉が一斉に黄色くなります。
その後、初夏を迎えると竹の子がぐんぐん成長し若竹になり、秋には青々とした親竹になって、滅多に咲かない「竹の花」を咲かすこともあるそうです。
春に色づき秋に花が咲くので、この季節のことを「竹の春」と呼ぶようになったというわけです。なぜか僕は、この季語がとても好きです。
人間の感覚ですと、「もう9月かぁ」とか「秋はあっという間だなぁ」なんてついつい口に出てしまいますが、もともと自然の営みは暦に関係なく存在していたわけで、あとから来た人間がそこに名前をつけただけ。。
なので、竹にとっては「今が春なんだ」という、この感覚がすごく新鮮で自由な発想をもたらしてくれると思うのです。
これを更に飛躍して考えると、人間はいろいろなものに縛られて生きていますが・・・もしかしたら、もっと自由闊達に生きることが出来るのではないかと
よく1月には「新年の抱負」なんてものを掲げますが、なんだかんだ言っている内に、季節は秋
今年も「時間がないなぁ」とボヤキがちのところ…もう一度、目標を掲げたときのことを思い出して、「これならできそう!」「年内にこれだけは、実現する!」という気持ちで、できることから一歩進んでみませんか。
例えば、興味はあるけどなかなか入門できない習いごとや、お部屋の掃除、不要なものは思い切って手放す。といった身近なことからで構いません。
逆に、普段休みがとれない方・過活動の方は、「思い切って何もしない!」をする。それもできない、人間関係に疲弊している人は、日々の記録をつける・・・等々。
能力を磨くことは「スキルアップ」。自分に養分を与えたり、心身を癒したりすることを「セルフケア」と呼びます。日本人は、とかく休みの日でも「休まなきゃ休まなきゃ」という意識が働くこともあろうかと思います。こうした一種の先入観や強迫観念も心のストレスになりますので、あくまでも自然体でゆっくり考えてみましょう。
青々とした竹の林に一陣の風が吹くように、あなたの心にも爽やかな光が降り注ぎますように
秋は、一番過ごしやすい季節であり、何を始めるにも良い季節であります。どうぞ、勇気を出して何事にも挑戦していきましょう
#天高く猫肥ゆる秋
#セルフケア
#スキルアップ
#竹の春
#たけのこの里派
【次回の「月例坐禅会」は、10月1日(金)あさ5時半~/予約不要・参加無料です。】
第107回坐禅会(参加者:12名)
9月1日は、坐禅会がありました。
今回は、12名の方にご参加いただきました。その内のお2人は、なんと先日までお化け役で参画してくださった男性の方でした
8月に開催した「妖怪道怨博〜真夏の夜の肝だめし〜」は、盛会の内に無事円成となりました。途中、悪天や緊急事態宣言等の影響もあり中止や縮小を余儀なくされた場面もありましたが、参加者の接触を極力避けることを念頭に「予約時間の分散」や「手指消毒・ソーシャルディスタンス」等の感染症予防策を講じ何とか最終日まで駆け抜けました
おかげさまで、開催期間延べ460人強の方々にご来場をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。諸事いたらぬ点が多々あったかとは存じますが、有事における催事としてひとつの試金石になったかと思います
その最後の挨拶の時に、スタッフの方へ「1日の朝5時半より坐禅会をやっておりますので、良かったらどうぞ」と申し上げたところ…1人のオバケさんが興味をもち今回初めて参加してくださいました
ご来山誠にありがとうございます
SNSや各種イベントなど、今までは思いもよらないところから新たなご縁がつながることがございます。
ネット社会の功罪、人との距離が気になる昨今ではありますが、、これからも「来るもの拒まず、去る者追わず」の精神で日々為すべきことに向き合って参る所存です。
【次回の「月例坐禅会」は、9月15日(水)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第106回坐禅会(参加者:12名)
8月に入りました。
今朝は、早起きの蝉とともに自然の風を感じながら坐禅会を行いました。
さて、昨日7月31日は「肝試し」のプレオープンを実施し、今日8月1日から約1ヶ月間「妖怪道怨博(ようかいどうおんぱく)」というホラーイベントが開催されます
また、あのオバケたちが帰ってきます
▼ https://fb.watch/76pUbjBiW_/
(※現在、おかげさまで予約は「満員御礼」となりました)
坐禅会に参加する80代のおじさんも、「昔は、青年団でよくお墓で肝試しをやっていたよ。」と懐かしそうにお話ししてくれました。
今年は、オバケ役も増えパワーアップして皆さまのご来場をお待ちしております
残念ながら、ご参加できない方も後日写真等でご報告をいたしますので、何卒ご笑覧のほどよろしくお願い申し上げます。
暑さ厳しき折、まずは体調管理を専一にご自愛くださいませ
《昼間にご来山される方へ》
・境内の一部に、肝試しの装飾が施されております。誠に恐れ入りますが、何卒ご寛恕賜れば幸いです。日中の見学は、ご自由にどうぞ( ´ ▽ ` )
・当山は、これよりも地域の子供たちはじめ子育て世代、またそれを見守る高齢者世帯の皆さまに資する取り組みを講じて参りたく存じます。ご意見ご感想は、随時承っておりますので、お気軽にお声掛けください。
【次回の「月例坐禅会」は、9月1日(水)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第105回坐禅会(参加者:7名)
今朝は、しとしと雨が降っておりました
足元の悪い中、ベテラン勢から初参加の方まで静かに参禅なされました。
あいにくのお天気…と言ってしまえばそれまでですが、田畑にとっては恵みの雨です。梅雨があるからこそ、育つ農作物もあります。
#晴れてよし降ってよし
同じ状況下でも、視点を変え好転的にとらえれば、心の負担が軽減されるかもしれません
雨垂れの音を聴きながら、坐禅するのもいいものですよ
【次回の「月例坐禅会」は、8月1日(日)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第104回坐禅会(参加者:13名)
今朝も多くの方にご来山いただきました。ベテランの方から、最近参加されるようになった方まで、様々なご縁により集いし参禅のお仲間であります。
その中には、大学教授の先生もおられました。せっかくなので、おつとめ後の茶話会でいろんなお話を伺いました
・静岡の人口流出問題
・新学部立ち上げの話
・リモートや動画ツールによる弊害
…などなど、多岐にわたり意見交換させていただきました
とくに印象的だったのは、「(コロナ禍における)他者とのかかわり」です。やはり、YouTubeなどネット媒体の発達により生活が便利になった反面、自分の好きな情報だけを収集してしまう偏りや、受け身姿勢が問題であると。
あらゆる意味で、他者との距離が重要視される昨今。生きている限り、どうしても自分以外の存在と関わる機会が生じます。そんな時、闇雲につっかかる「否定脳」・盲目的に同調する「うなづき屋」・「無関心」あるいは「ことなかれ主義」反対に「多干渉」…と、相手との接し方には、無意識のうちに自分の癖が現れることもあります。
知らず知らずに相手を傷つけるヘイトスピーチに加担してしまうこともあり、発言には気をつけなければなりません。ただし、それを恐れるあまり自分の主義主張を緩めることもナンセンスだと思います。
相手の立場や気持ちを慮り、その上で言葉を選びつつ、議論を交わす。こうした「対話の練習」が必要なのではと常々考えております。
そのためにも大切なのは、「自分自身との対話」です己の中にも、その日の感情や体調により千差万別の自分が存在します。はたして、その日の自分とちゃんと会話しているでしょうか。
まずは、身体と心の健康を第一優先にし、自分自身に余裕をもたせることが肝心なことです。
「余裕」とか「ゆとり」という言葉に抵抗のある方もおられるかもしれません。
勤労多忙の美徳はありますが、「心の余白」を確保することで、他者のことも考えられるスペースが生まれます。
パソコンもスマホも容量が大きいほど作業もはかどるように、自分の器を大きく育てることで出来ること・考えることの範囲も増えていきます。
もちろん、小さい器、形がいびつな器もありましょう。大事なことは、それぞれの心の器を磨いて大切にすることだと思います。
夏期は、(本堂向かって左側にある)茅葺屋根のお堂「坐禅堂」にて開催しております。参加ご希望の方は、お気軽にお立ち寄りください。
【次回の「月例坐禅会」は、7月1日(木)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第103回坐禅会(参加者:11名)
東の空よりおひさまが顔を出し、木々が色鮮やかに目覚める早朝。
古風を今に伝える坐禅堂にて、静かに坐を組みました。今朝もはじめて参加された方が、お二人程おられました
曹洞宗の坐禅では、開祖 道元禅師の説かれた「只管打坐(しかんたざ=ただひたすらに坐る)」という教えのもとに、「調身・調息・調心(ちょうしん・ちょうそく・ちょうしん)」という実践行を大切にしています。
まずは、作法にしたがい身体を整え、深呼吸よろしく呼吸を整えます。そうすることで、自ずと心も整っていく。この過程そのものが修行であり、仏さまの姿を体現していく尊い行いであると信じております。
所作のひとつに、「法界定印(ほっかいじょういん)」という手の組み方があります。(※宗派によって差異あり)
右手をおへその下(足のつけね)にのせ、その上に左の手をのせて両手の親指を軽く合わせます。するとタマゴのような楕円形の輪ができるので、坐禅中はその輪が離れないように集中します。
よく長時間坐っていると、眠くなったりアレコレ雑念が頭に浮かんできます。そうするとこのタマゴの形がだんだんくずれてしまうので、そうならないよう保つようにしてください。
静かに坐っておりますと、鳥のさえずりが聴こえてきます
早春の頃には不器用だった小鳥が、だんだん上手に鳴けるようになったり、たまに季節外れのウグイスの鳴き声も聞こえたり
余談ですが・・・ウグイスの「ホーホケキョ」という鳴き声は、繁殖期の雄のみが奏でる声だそうで、(地域によって差はありますが)毎年2~5月頃に良く鳴く時期と言われております。
またその期間は、繁殖期に自分の子どもが雌との間に生まれるまでの間までと言われており、無事自分の子孫が残せた雄のウグイスは鳴くことが少なくなると言われております。
まれに、8月になっても「ホーホケキョ」と鳴いているウグイスは、雌に相手にされず自分の子孫を残せていないウグイスとも考えられており、鳴き声を懸命に練習しているとも言われております。(まるでどこかの誰かを・・・以下自粛)
禅の言葉に、『啐啄同時(そったくどうじ)』というものがあります。
ひな鳥がタマゴから孵るとき。「もうすぐ出るよ!」と殻の中からつつく音「啐(そつ)」と、それに気づいた親鳥が「出ておいで」と外から殻をつつく音「啄(たく)」。それらが同時に行われることが、理想であるという意味になります。
このことから、師弟関係は一期一会、「好機を逃さないように!」といった教訓としても用いられる言葉です。
確かに。双方の想いが合致するのはひとつの理想ですが、、
人間の世界では、そうそう都合よくタイミングが合わないことも事実です。
理想と現実。この両者のギャップから苦が生まれます。
基本と応用。あくまでも基本を習った上で、応用や略式のやり方に到るべきでありましょう。
そうした観点をふまえ
本日ご参加された方の中には、以前交通事故に見舞われ長時間坐ることが困難な方もおられました。
そのため「イス坐禅」をお勧めし、場合によっては立ち上がっていただいたり、ゆっくり歩く動作(経行:きんひん)を行っていただくようご案内いたしました。
人それぞれ、呼吸の仕方や理解の速度に違いがあります。「坐禅をしてみたい」という気持ちのある方ならどなたでも大歓迎ですし、やり方もできる範囲で結構です。(パシーッといきなり叩かれるようなこともありません
)
まずは自分の心と向き合い、次に相手がどのような状況(心境)にあるか丁寧に考え、目の前の事象(人・出来事)に向き合って参りたく存じます。
『曹洞宗の坐禅』
▼https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop/saho
夏期は、(本堂向かって左側)茅葺屋根のお堂「坐禅堂」にて開催しております。参加ご希望の方は、お気軽にお立ち寄りください。
【次回の「月例坐禅会」は、6月15日(火)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第102回坐禅会(参加者:8名)
爽やかな早朝の風を感じながら、本日も坐禅堂にて坐を組みました
この時期、前門(ぜんもん)という僧堂正面の扉を開けると、東の空から朝陽が差し込みます。
ちょうどその場所に仏さまが鎮座されておりますので、光輝いているように見えます。『先人方は、すごい場所にお堂を建てたもんだなぁ』としばし想いを馳せました。
木々のざわめき、鳥の声、風の温度…そして自分の心。。普段、耳や眼に入っているようで、気づいてない自然の営み
大切なことに気づかせてくれる時間です
これからの季節は、(当日の天候にもよりますが)坐禅堂中心に開催して参ります。参加ご希望の方は、お気軽にお問い合わせください。
【次回の「月例坐禅会」は、6月1日(火)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第101回坐禅会(参加者:9名)
本日は、101回目の坐禅会でした。
日中は日差しも暖かく、穏やかな気候になってきたため、今朝は久しぶりに「坐禅堂」にて端坐いたしました
とはいえ、5月に入ったばかりの早朝は未だなお肌寒く、昔ながらの木戸や障子からは若干の隙間風が堂内に入り込んできました
それでも、参加者の皆さまは黙々と坐禅を組まれておりました。
本堂での読経が終わったあと、、
「やっぱり、坐禅堂でやるのはいいなぁ。」と感想を語っておられたのは、ベテランの参禅者さん
その日の天候にもよりますが、これからの季節は、坐禅堂中心に開催して参りたく存じますので、参加ご希望の方はぜひお気軽にお問い合わせください。
【次回の「月例坐禅会」は、5月15日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第百回坐禅会(参加者:9名)
本日は、私がこのお寺に着任してから数え始めてちょうど「100回目」の月例坐禅会でした。
奇しくも、昨日14日は東京オリンピックまで「あと100日」ということで節目が続きました
世の中は、国内外問わず様々な問題や社会苦が絶えず巻き起こっています。
そうした渦中にあり、静かにただ坐る「坐禅」に何か意味があるのか?
もとより、意味はございません。
目的もありません。
坐ること=悟り
曹洞宗の教えの根幹にあるのが、この坐禅です。
約2500年前―。お釈迦さまが坐禅修行により悟りを開かれたことに由来し、曹洞宗開祖・道元禅師はただひたすらに坐る「只管打坐(しかんたざ)」という教えを説かれました。
坐禅する姿そのものが「仏の姿」であり、「悟りの姿」であるとされます。これは悟りのための手段として修行するのではなく、修行と悟りは一体のものだという「修証一如(しゅしょういちにょ)」という教えにもとづいています。
こう聞くと、お寺では何か無駄なことをしている。あるいは、世の中のことに向き合っていない…と感じる方もおられるかもしれません。
仏教は、何となくドライで厭世的(えんせいてき)だという印象を抱かれる方もあるでしょう。
(※厭世的とは、人生や世の中にうんざりして、 目を背けようとするさまを表す言葉です。)
ところがどっこい!
仏教ことに禅は、今の生活にとって非常にためになることを伝えております。
それは、自己との向き合い方、心の整理整頓や多角的視点の構築など、(言葉にすると前述の「目的はない」ことに矛盾して映ってしまうかもしれませんが)心身を整えることにつながる行を数多く教えてくれます。
情報過多の現代においては何もかも目まぐるしく動くので、あえて自らの動きを止め「いま、何が大切か」ということを精査する時間と捉えていただいても差し支えないかと思います。
※パソコンで言えば、#デフラグ
この視点から申せば・・・
冒頭で100回目の節目と申しましたが、本来そのようなカウントは不必要なものです(´-_-`)反省
怠ることなく、ただ黙々と坐れば良いのですが、、凡夫である私の頭の中もまた絶えず目まぐるしく動いておりますので、その時その時に感じたことを認め、後に反省材料にしようとこのブログを始めました。
恥も外聞もなく戯言放言を書き連ね、ここまでお付き合いくださった皆さまには誠に感謝に堪えません。
おかげさまで、これまで拙稿をご覧になった方からのお問い合わせや、新たに坐禅会に参加してくださった方も多数ありました
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
(30年来当山の住職を務めた)父の代から数えれば、もう800回以上に渡り当坐禅会に参加されている大ベテランの参禅者の方もおられます。
これからも、そうした先達の背中を仰ぎつつ一歩一歩行じて参る所存でございますので、引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
一乗寺住職 丹羽崇元 合掌
【次回の「月例坐禅会」は、5月1日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
≪追記≫
・100回記念に、本尊さまの視点から本堂を撮影いたしました。(写真参照)
・次回は、101回目また気候的にも穏やかになって参りましたので従来通り「坐禅堂」が会場となります。ご参加希望の方は、お気軽にお問い合わせください。