静岡市清水区にある曹洞宗の寺院「一乗寺」のブログです。あなたのかかりつけのお寺として、ともに寄り添いたく存じます。
第103回坐禅会(参加者:11名)
東の空よりおひさまが顔を出し、木々が色鮮やかに目覚める早朝。
古風を今に伝える坐禅堂にて、静かに坐を組みました。今朝もはじめて参加された方が、お二人程おられました
曹洞宗の坐禅では、開祖 道元禅師の説かれた「只管打坐(しかんたざ=ただひたすらに坐る)」という教えのもとに、「調身・調息・調心(ちょうしん・ちょうそく・ちょうしん)」という実践行を大切にしています。
まずは、作法にしたがい身体を整え、深呼吸よろしく呼吸を整えます。そうすることで、自ずと心も整っていく。この過程そのものが修行であり、仏さまの姿を体現していく尊い行いであると信じております。
所作のひとつに、「法界定印(ほっかいじょういん)」という手の組み方があります。(※宗派によって差異あり)
右手をおへその下(足のつけね)にのせ、その上に左の手をのせて両手の親指を軽く合わせます。するとタマゴのような楕円形の輪ができるので、坐禅中はその輪が離れないように集中します。
よく長時間坐っていると、眠くなったりアレコレ雑念が頭に浮かんできます。そうするとこのタマゴの形がだんだんくずれてしまうので、そうならないよう保つようにしてください。
静かに坐っておりますと、鳥のさえずりが聴こえてきます
早春の頃には不器用だった小鳥が、だんだん上手に鳴けるようになったり、たまに季節外れのウグイスの鳴き声も聞こえたり
余談ですが・・・ウグイスの「ホーホケキョ」という鳴き声は、繁殖期の雄のみが奏でる声だそうで、(地域によって差はありますが)毎年2~5月頃に良く鳴く時期と言われております。
またその期間は、繁殖期に自分の子どもが雌との間に生まれるまでの間までと言われており、無事自分の子孫が残せた雄のウグイスは鳴くことが少なくなると言われております。
まれに、8月になっても「ホーホケキョ」と鳴いているウグイスは、雌に相手にされず自分の子孫を残せていないウグイスとも考えられており、鳴き声を懸命に練習しているとも言われております。(まるでどこかの誰かを・・・以下自粛)
禅の言葉に、『啐啄同時(そったくどうじ)』というものがあります。
ひな鳥がタマゴから孵るとき。「もうすぐ出るよ!」と殻の中からつつく音「啐(そつ)」と、それに気づいた親鳥が「出ておいで」と外から殻をつつく音「啄(たく)」。それらが同時に行われることが、理想であるという意味になります。
このことから、師弟関係は一期一会、「好機を逃さないように!」といった教訓としても用いられる言葉です。
確かに。双方の想いが合致するのはひとつの理想ですが、、
人間の世界では、そうそう都合よくタイミングが合わないことも事実です。
理想と現実。この両者のギャップから苦が生まれます。
基本と応用。あくまでも基本を習った上で、応用や略式のやり方に到るべきでありましょう。
そうした観点をふまえ
本日ご参加された方の中には、以前交通事故に見舞われ長時間坐ることが困難な方もおられました。
そのため「イス坐禅」をお勧めし、場合によっては立ち上がっていただいたり、ゆっくり歩く動作(経行:きんひん)を行っていただくようご案内いたしました。
人それぞれ、呼吸の仕方や理解の速度に違いがあります。「坐禅をしてみたい」という気持ちのある方ならどなたでも大歓迎ですし、やり方もできる範囲で結構です。(パシーッといきなり叩かれるようなこともありません
)
まずは自分の心と向き合い、次に相手がどのような状況(心境)にあるか丁寧に考え、目の前の事象(人・出来事)に向き合って参りたく存じます。
『曹洞宗の坐禅』
▼https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop/saho
夏期は、(本堂向かって左側)茅葺屋根のお堂「坐禅堂」にて開催しております。参加ご希望の方は、お気軽にお立ち寄りください。
【次回の「月例坐禅会」は、6月15日(火)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第102回坐禅会(参加者:8名)
爽やかな早朝の風を感じながら、本日も坐禅堂にて坐を組みました
この時期、前門(ぜんもん)という僧堂正面の扉を開けると、東の空から朝陽が差し込みます。
ちょうどその場所に仏さまが鎮座されておりますので、光輝いているように見えます。『先人方は、すごい場所にお堂を建てたもんだなぁ』としばし想いを馳せました。
木々のざわめき、鳥の声、風の温度…そして自分の心。。普段、耳や眼に入っているようで、気づいてない自然の営み
大切なことに気づかせてくれる時間です
これからの季節は、(当日の天候にもよりますが)坐禅堂中心に開催して参ります。参加ご希望の方は、お気軽にお問い合わせください。
【次回の「月例坐禅会」は、6月1日(火)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第101回坐禅会(参加者:9名)
本日は、101回目の坐禅会でした。
日中は日差しも暖かく、穏やかな気候になってきたため、今朝は久しぶりに「坐禅堂」にて端坐いたしました
とはいえ、5月に入ったばかりの早朝は未だなお肌寒く、昔ながらの木戸や障子からは若干の隙間風が堂内に入り込んできました
それでも、参加者の皆さまは黙々と坐禅を組まれておりました。
本堂での読経が終わったあと、、
「やっぱり、坐禅堂でやるのはいいなぁ。」と感想を語っておられたのは、ベテランの参禅者さん
その日の天候にもよりますが、これからの季節は、坐禅堂中心に開催して参りたく存じますので、参加ご希望の方はぜひお気軽にお問い合わせください。
【次回の「月例坐禅会」は、5月15日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
第百回坐禅会(参加者:9名)
本日は、私がこのお寺に着任してから数え始めてちょうど「100回目」の月例坐禅会でした。
奇しくも、昨日14日は東京オリンピックまで「あと100日」ということで節目が続きました
世の中は、国内外問わず様々な問題や社会苦が絶えず巻き起こっています。
そうした渦中にあり、静かにただ坐る「坐禅」に何か意味があるのか?
もとより、意味はございません。
目的もありません。
坐ること=悟り
曹洞宗の教えの根幹にあるのが、この坐禅です。
約2500年前―。お釈迦さまが坐禅修行により悟りを開かれたことに由来し、曹洞宗開祖・道元禅師はただひたすらに坐る「只管打坐(しかんたざ)」という教えを説かれました。
坐禅する姿そのものが「仏の姿」であり、「悟りの姿」であるとされます。これは悟りのための手段として修行するのではなく、修行と悟りは一体のものだという「修証一如(しゅしょういちにょ)」という教えにもとづいています。
こう聞くと、お寺では何か無駄なことをしている。あるいは、世の中のことに向き合っていない…と感じる方もおられるかもしれません。
仏教は、何となくドライで厭世的(えんせいてき)だという印象を抱かれる方もあるでしょう。
(※厭世的とは、人生や世の中にうんざりして、 目を背けようとするさまを表す言葉です。)
ところがどっこい!
仏教ことに禅は、今の生活にとって非常にためになることを伝えております。
それは、自己との向き合い方、心の整理整頓や多角的視点の構築など、(言葉にすると前述の「目的はない」ことに矛盾して映ってしまうかもしれませんが)心身を整えることにつながる行を数多く教えてくれます。
情報過多の現代においては何もかも目まぐるしく動くので、あえて自らの動きを止め「いま、何が大切か」ということを精査する時間と捉えていただいても差し支えないかと思います。
※パソコンで言えば、#デフラグ
この視点から申せば・・・
冒頭で100回目の節目と申しましたが、本来そのようなカウントは不必要なものです(´-_-`)反省
怠ることなく、ただ黙々と坐れば良いのですが、、凡夫である私の頭の中もまた絶えず目まぐるしく動いておりますので、その時その時に感じたことを認め、後に反省材料にしようとこのブログを始めました。
恥も外聞もなく戯言放言を書き連ね、ここまでお付き合いくださった皆さまには誠に感謝に堪えません。
おかげさまで、これまで拙稿をご覧になった方からのお問い合わせや、新たに坐禅会に参加してくださった方も多数ありました
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
(30年来当山の住職を務めた)父の代から数えれば、もう800回以上に渡り当坐禅会に参加されている大ベテランの参禅者の方もおられます。
これからも、そうした先達の背中を仰ぎつつ一歩一歩行じて参る所存でございますので、引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
一乗寺住職 丹羽崇元 合掌
【次回の「月例坐禅会」は、5月1日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
≪追記≫
・100回記念に、本尊さまの視点から本堂を撮影いたしました。(写真参照)
・次回は、101回目また気候的にも穏やかになって参りましたので従来通り「坐禅堂」が会場となります。ご参加希望の方は、お気軽にお問い合わせください。
第九十九回坐禅会(参加者:6名)
4月に入り、新年度が始まりました。新しい環境に飛び込む方も、今までと同じ生活が続く方も、心機一転!気持ちを切り替えて良いスタートが切れるようお祈りいたします
一方、禅の世界には「山中暦日無し(さんちゅうれきじつなし)」という言葉があります。
これは、唐代の太上隠者(たいじょういんじゃ)が、静かな山の中に庵を結び何年も経ったとき、『今年が何年だか分からんが、また春が来たなぁ』と、物思いに耽る情感を表しています。
かつて、修行時代にある老師から「堂中の人歴日を知らず」という言葉を教えていただきました。
前述の禅語に似ていますが、堂中(どうちゅう)つまり僧堂で修行中の人間には、歴は関係ない。日が東より出るがごとく、日々為すべきことをなせ。という大意であります。
お正月や特別な日だからといって無闇矢鱈に浮かれたり騒いだりするのではなく、日々の務めに励みなさいという修行者への戒めが込められています。
ですから、新年度がスタートしたからと言って何か大きく変わる訳でもなく、目の前の現実としっかり向き合っていくことが肝要であるかと存じます。
…という大前提のもと
社会の中で生きていくということは、綺麗事ばかりではありません。今までの生活圏では当たり前だったことも、広い世界では非常識になったり通用しないこともありましょう。
三遊亭円朝の創作落語に、「文七元結(ぶんしちもっとい)」という話があります。
▼ 以下《》内はあらすじ。下げ(オチ)を知りたくない方は、飛ばしてください。
《腕はいいが、博打好きの左官の長兵衛。商売道具まで質に入れてしまった家は借金だらけで、夫婦喧嘩が絶えない。見かねた娘のお久が吉原の佐野槌に自分の身を売って急場をしのぎたいと駆け込む。健気な娘に改心した長兵衛は、女将さんに50両(4〜500万円)もの大金を借りて、必ず期限までに返済すると約束する。(★)
ところがその帰り道、吾妻橋で文七という身投げ男に出くわす。事情を聞いた長兵衛はしかたなく…自分の娘を売った大切な金を渡してしまう。
店に戻った文七が、涙ながらに主人にことの次第を伝えたところ、、「見ず知らずの若者の命を助ける為に、大金を投げ出すことはなかなか出来ることではない。」とその心意気に惚れ、後日長兵衛の元へと訪ねる。
これが縁で娘は身請けされ、自由の身となったお久は文七と夫婦になり、文七元結を売り出す。》という人情噺(にんじょうばなし)です。
(★)
この噺の途中、父と娘の別れの場面で長兵衛がお久にこういいます。
「…勘弁してくれ。俺はこれから博打はしねぇ。一生懸命仕事に精を出すから、、辛いことがあっても辛抱しろよ。な、お前は人中に出たことはねぇ。他人てものをよく知らない。先輩方には口の悪いのもいるだろう、人様には何でもへぇへぇと頭を下げるようにして、一つぐらい殴られても『お手は痛くありませんか』ぐらいのことを言っておけ。な、一日でも早くお前を迎えに来れるよう金を稼ぐから、女将さんの言うことをよく聞いて…辛抱してくれ。」と。
今とは全く異なる価値観ではありますが、どうしようもない父親がそれでも娘に対する愛情を不器用に表現している一節だと思います。
子どもたちには、この世界は美しく素晴らしいものであるということを伝えるのが親であり、大人の役目であると思い自分自身もさまざまな活動をしております。
ただ、もう一方で危険なものや非常時での生き方を教えるのも大事なことです。
暦や節目は何も時を刻むだけではなく、気持ちを切り替えることができるように人類が発明したものだと思います。、
自らの失敗をふまえ後進の方により良き道を築くためにも、多角度から物事を見つめる目と、違う価値観も聞くことのできる耳を養って参りたく思います。
どうぞ、新環境にてお身体に障りませんようくれぐれもご留意ください
『文七元結』(6代目 三遊亭圓生)
▼ https://youtu.be/ls_Ns44L1H8
【次回の「坐禅会」は、いよいよ100回目/4月15日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
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